“けじめ”がつかない/日本の住空間にあるケジメ

“けじめ”がつかない

このところしばらく聞くことのなかった言葉をいやによく耳にするようになった。「けじめ」がそれだ。岸田政権の閣僚が相次いで辞任に追い込まれた。旧統一教会がらみでの対応や不始末などで、野党や国民、メディアから「国会議員、政治家としてのケジメをつけろ」などと迫まられ、渋々ながら辞めた。民間の大手企業でも不祥事が様々に噴出、経営トップは「経営者としてのケジメをつける」と経営の舞台から降りる。プロ野球やサッカーなどスポーツ界でも成績不振から監督の「ケジメの辞任」が。かと思ったら企業でもダラダラの仕事ぶりに「仕事のケジメをつけるように」の言葉が飛ぶ。さらにTVをみていたら人気タレント・俳優が「男としてのケジメをつけるために長年付き合ってきた女性と結婚します」の発言が。そしてわが家で「ケジメがつかないから早く食事を終わらせて」のきついひと言。日曜日に家族がダラダラ起きてくる朝食風景へのイエローカードだ。天候不順のなかで「季節のケジメがつかなくなった」の嘆きの声も少なくない。

大体、“ケジメ”を、ヤクザ言葉と思っている人も多いのだが、古くからの大和言葉だ。伊勢物語や源氏物語などにも出てくる。例えば「また絵所に上手多かれど墨がきに選ばれて次々にさらに劣りまさるけぢめふとしも見え分かれず」(帚木6章)。絵師たちの腕のちがいの差は見えない、ということで“差”の意味で“けぢめ”が使われている。手元の新明解国語辞典によると「失敗や利敵行為に対する懲罰を明白な形で行う」「非行に対して責任をとる」と共に「その場、その場において取るべき折り目正しい行動の枠」とある。広い意味で、“区切り”“区別”と解釈していいのだと思う。そして強弁するつもりはないが、“ケジメ”は日本の住まい、暮らしのなかに深く根ざした住文化から生まれてきた言葉のようにも思うのだ。

端的な例が日本の住まいのなかの「ケ(穢)」と「ハレ(晴)」の機能だ。戦前まで日本の家は日常生活のケの場とともに結婚式の披露宴や法要などを行うハレの場でもあった。幼い子どもの頃、狭い家なのに襖や障子を取りはずして近所の人たちや親戚の人が集まって飲んだり歌ったりの宴会がよくあった。普段の生活のなかにその家ならではの記念や伝統の行事を節目、節目に取り入れて生活に変化をつけていたのだ。


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