関東大震災から100年/映画「福田村事件」が語るモノ

関東大震災から100年

1923年(大正12)9月1日に発生し、直後に広がった火災で約10万5000人の犠牲者を出した関東大震災から間もなく100年。大きな節目とあって、首都圏を中心に数多くのイベントが開かれている。首都直下型地震や南海トラフ地震など大地震の再来が高い確度で予見されるなか、関東大震災をさまざまな角度で検証し、次代への学びとすることの意義は少なくない。

関東大震災100年を振り返るなかで、大量の震災記録や写真も掘り起こされている。なかでも圧倒的な迫力を持つのが写真だ。新聞通信調査会が発行するメディア展望(6、7月号)のなかで共同通信社社友の沼田清さんが関東大震災の報道写真について記述、解説しており、迫力ある写真が何枚も紹介されている。日本写真家協会が刊行した写真集「日本写真史」のなかの「炎上する日比谷付近の火災」「本所陸軍被服厰あとの焼死体」「銀座の焼け跡にできた水溜りで身体を洗う女性」「横浜正金銀行前の焼死体」などのインパクトは強い。さらに東京都復興記念館に残る宮城前広場に避難した群集のパノラマ写真は見る者を圧倒する。震災時、宮城前には約30万人が集まったとされるが、パノラマ写真には数万人規模の大群集が写る。家財道具を大八車や人力車に載せて集まる人々の避難の実相が目を覆う。関東大震災の発生がいかに人々を恐怖と混乱に落とし入れたかも想像できる。

本誌今号でも関東大震災を特集しているが、ほんのわずか100年前のこととは思えない政治、経済、社会の変容ぶりには驚かざるを得ない。女性が銀座で裸体になり身体を洗う図など今の我々にとても想像できるものではない。それがほんの100年前のこと。東京の復興、発展ぶりに目を見張るほかないが、現実には東京は第2次世界大戦の敗戦で再び焼け野原になっていることを考えると、苦難から立ち上がる日本人の生命力、反発力に驚くのだ。耐震、耐火の建築技術、防災を意識した都市計画、さらにはリスク分散からの郊外住宅地の開発など震災を機に変わった日本の姿を数え上げたらキリがない。

ただ、大震災の惨状の一方で、日本にとって黒歴史となる事件が相次いだことに目を瞑ってはならないだろう。人心が混乱するなか、戒厳令も発布された。とくに内務省が各地の警察署に下達した内容のなかに「混乱に乗じた朝鮮人が凶悪犯罪、暴動などを画策しているので注意すること」の一文があったことが、朝鮮人殺害をはじめとする虐殺事件の引き金になった。朝鮮人にとどまらず朝鮮人と間違われた日本人が数多く犠牲になったほか、この機に乗じるように以前から警察と対立していたアナキストの大杉栄、作家で内縁の妻、伊藤野枝らが憲兵隊の甘粕雅彦らによって扼殺された甘粕事件、労働組合の指導者ら10名が殺された亀戸事件などが今も記録に残る。


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