「林業」をもっと大切にしよう 資源を育み続ける確かさこそ尊い

 

過去の仕事が今につながっている

山を育む林業という生業がいかに確かで尊いものか。先日、西日本のある林家を久しぶりに訪問し、昨今の社会情勢とも相まって、そのことを実感した。

その林家では家族が力を合わせて木を育て、育て上げた木を自ら伐採して出荷し、その売上で生計を立ててきた。本格的な自伐林家である。

以前は祖父、両親、その息子と3世代が山仕事に従事していた。だが、祖父が亡くなり、高齢となった両親も山に足を運ぶ回数はめっきり減り、今は40代半ばの息子が同年輩の従業員とふたりで山のあれこれを担っている。

その家に到着したのは昼前で、ダイニングキッチンで昼食をごちそうになりながら、両親と息子の会話に私も加わって山のことに関するよもやま話になった。

時間と労力の積み重ねによって山は育まれる

息子はいま伐採している現場の木について、80年生くらいの壮齢木であるものの、品質が予想よりも劣っていて、木が若かったころの枝打ちの仕方がよくなかったのではないかと残念がってみせた。枝打ちが行われたのは木がまだ若い時分で、50年も60年も前のことになるから、当然息子の仕事ではない。息子としては自分がどうにかできることではないし、「なんだよ」という心持ちになったようだ。

すると母親が所有林の別の山の話を持ち出し、「あそこはな、〇〇(地名)の女衆に来てもらって枝を打ってもらったから、それは丁寧に仕事をしてくれたはずだで」と息子に伝えた。

昔の林業地では、農林家の女性が農作業だけでなく山仕事にも従事するのはごく普通のことで、他家の山仕事を手伝って賃金を得ることも当たり前に行われた。そして女性に任せると、丁寧に仕事をしてくれたものらしい。

積み重ねられた時間を実感できる

この林家を訪ねると、いつも一家団らんの輪に入れてもらい、林家ならではの話題に耳をそばだて、あるいは私も話に加わってリラックスした楽しい時を過ごす。そして、会話の端々から、山づくりにかけられてきた長い長い年月の重なりが確かな事実であることを確信する。

われわれは木を育て、利用し続けることができる

それは当代の息子から数えて4代前になる、彼にとっては高祖父(祖父の祖父)が手掛けた山づくりの様子や高祖父が曽祖父と一緒にやった作業のことなど、100年以上も前からのことが一塊になって掌(たなごころ)にあるかのような確かな実感をもたらしてくれる。

だいぶ前のことだが、日本三大人工美林のひとつに数えられる静岡県天竜地域で、ある林家から「山に大きく育った木があるということは、その山には木を育てるのに通い続けた人々の無数の足跡があり、地面にはたくさんの汗が染み込んでいるんです」と聞かされたことがある。

人が長年にわたって時間と労力を費やしてきた結果が今の山の姿であり、その山の木の経済価値を測るなら、そこには原価がカウントされなければならない。そして人が時間と労力を投じることによって、言い換えれば原価を積み重ねることによって、山がつくられ、木が育まれる。そのサイクルを途絶えさせずに続けることも可能だ。こんな確かなことはないと、つくづく思う。

石油は有限だが、山づくりは永続できる


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