2025.4.14

「森は海の恋人」の畠山さん逝く

 

「森は海を海は森を恋いながら悠久よりの愛紡ぎゆく」(熊谷龍子) 

この歌の中から、貝から真珠がこぼれるように「森は海の恋人」という魅惑のフレーズが生まれた。

「漁民は山を見ていた。海から真剣に山を見ていた。海から見える山は漁民にとって命であった」。「森の恵みがなければ一日も生きてゆけない。船も漁具も森の産物から造られたからだ」

カキ養殖業者で、エッセイストでもある宮城県気仙沼市に住む畠山重篤さんの著書「森は海の恋人」(文春文庫)の中の文章である。

その畠山さんがこのほど永眠した。81歳。まだまだ海と森の自然の語り部でいてほしかった。残念でならない。

ひげもじゃの仙人のような風貌からこぼれるやさしいまなざし、笑顔が目に浮かぶ。話は面白く、楽しい。それでいて理路整然。大学など学会からの講演依頼は引きも切らず。かと思えば小中学校の子供たちにも平易にやさしく語り掛ける。そしてひとたびペンを握れば、五感をフル回転させた珠玉のような言葉をちりばめた文章を綴る。「森は海の恋人」が永遠のベストセラーのように長年にわたって読み継がれているのも、畠山さんの優しい人柄があふれ、読み手の心を温かく包み込んでくれるからだろう。

三陸海岸の漁師の家に生まれ、牡蠣士になる。だが、高度経済成長期と重なるようにして、奈落の底に落ちるようにカキは育たなくなり、カキ養殖は危機に立たされる。畠山さんは原因究明に乗り出す。海藻類が死滅する磯焼けによって海水中の鉄分が不足してカキの餌であるプランクトンが増殖しないのだ。なぜか?

気仙沼湾にそそぐ川から、森林の伐採で鉄分を供給する清らかな水が失われ、相次ぐ埋め立てや海岸のコンクリート化、都市化による廃水などが原因であることを突き止める。畠山さんは川の復活を願って、行動に移す。山の上流部に植林をし、森をつくろうというのだ。漁師の仲間を糾合し、川沿いの山の人たちにも協力を求め、賛同の輪を広げた。森の民と海の民ががっちりと握手した。植林する地を「牡蠣の森」と名付けた。

平成元年9月、水源の近くの室根山での植樹がスタート。この時、色とりどりの大漁旗が何百枚もはためいた。山に漁民の大漁旗がはためく姿がいかに勇壮であるかが想像できる。爾来36年、毎年大漁旗がはためく植樹祭が行われ、これまでに植えた樹木は5万本を超えたという。

この活動は今や、全国に広がる。山の神、海の神をあがめ、山の民と海の民が美しい森、豊かな海づくりに取り組む。大人だけではない。子供たちも巻き込む。環境教育の体験学習だ。山の子供たちを海に連れ出し、豊かな山、森が海産物を生み出す豊かな海をつくることを身をもって学ぶ。海から眺める自分たちが暮らす山の偉大さ、尊さを喜び子供たちは感嘆の声を上げるという。

森林が海の生物とどのようにかかわっているかを探る中で、林学、河川学、水産学など境界学問の重要性を唱えるなど、畠山さんの活動は官、学、民の各界から高い評価を得ていた。その活動によって、海の漁師ながら森林、林業への功績者として国連から日本人初の「フォレストヒーロー」の称号も与えられている。宮沢賢治イーハトブ賞、吉川英治文化賞など国内の受賞歴は数多い。楽しいエピソードの数々もうれしく、美智子上皇后との交信の話も貴重だった。

畠山さんは東日本大震災で壊滅的とさえいえる養殖場の打撃を受け、津波で母親をも亡くしている。2017年3月に取材で養殖場に伺ったが、カキ筏を案内していただいた船の上で、「あの時はもう立ち直れないかと絶望感に襲われた」としみじみ語っていた。震災から6年後の取材であったが、復活したきれいな海の上で漁民たちの語るも涙の奮闘談にはただただ首を垂れるほかなかった。

取材時にはさすがカキの養殖家、カキ筏にひょいと飛び移り、カキがいっぱい張り付いたロープを海中から引き揚げて見せてもくれた。その満面の笑みも忘れられない。もちろん船から降りて、ごちそうになったのがこの引き揚げたばかりの牡蠣。潮の香のする大粒をいくつ食べたろう。新鮮な生ガキのだいご味は、今も畠山さんと二重写しだ。

東京でも何回かお会いする機会があったが、いつも心を温かくしてくれた。小さなことを一つ一つ積み上げていくことの大切さを身をもって教えてくれた。感謝のほかない。

今、地球環境問題はかつてない危機的な状況にある。山、川、海の自然環境の維持、保全は言うまでもない。畠山さんにはまだまだ頑張ってほしかった。活動の輪が全国に広がるなかで、大漁旗が山ではためく姿をもっともっと見たかった。

著書「森は海の恋人」はこの歌で結ぶ。

「森は此方に海は彼方に生きている 天の配剤と密かに呼ばむ」

ありがとうございました。

カキ筏の前で(2017年 筆者撮影)

(2025.4.10)