戦後80年 住宅産業の源流 取材ノートからの「あの日、あの事、あの人」
戦後80年、この大きな節目に例年以上に〝8月ジャーナリズム〟は盛り上がっている。ともするとメディアへの8月における数々の災禍に対するマンネリ報道に皮肉の意を込めて語られる言葉だが、今年は違った。新聞、TV、雑誌などメディアはこぞって戦後80年を独自の視点で把え、特集を組み報じた。TVではNHKの朝の連続TV小説「あんぱん」で、モデルの漫画家やなせたかしの戦地の悲惨、軍隊の不条理、銃後の守りとされた国民の苦悶などが描かれ、悲憤の涙を誘った。そう言えば昨年の朝ドラ「虎に翼」でも女性初の裁判官としての主人公の夫や兄の戦死、焼け野原の東京と孤児たちの酷さ、食糧難のもと闇米をいさぎよしとせず飢死同然で亡くなった裁判官の実話も描かれた。主人公の原爆裁判での「広島、長崎への原爆投下は国際法違反である」の勇気ある判決は今を生きる我々へのベンチマークだ。映画も録画、再放送を含めて戦争モノを何本観ただろう。「はだしのゲン」「火垂るの墓」「ひめゆりの塔」「ひろしま」「沖縄決戦」など人間が人間であることを止めた酷さに言葉を失う。日本記者クラブでの試写「黒川の女たち」は敗色濃い終戦間近か、国策で岐阜県から満州に渡った満蒙開拓団が命乞いに18歳以上の女性たちを慰安婦として侵攻してきたソ連軍将校に差し出したドキュメンタリーだ。女性たちの勇気ある生々しい証言には息をのむしかない。「帰国してからのほうがつらく、悲しかった」には今の我々は返す言葉もない。「次に生まれるそのときは平和の国に産まれたい」はあまりに切ない。日本人はほんの80年前、こんなにも残虐だったのか。
田中角栄元首相は「戦争を知っている連中が政府の中枢にいるときは心配ない。戦争を知らない連中が中枢についたときが恐い」と語っていた。今、まさにその危うさの足音がしのび寄りつつある。世界各地で戦乱が続く。そこでは核兵器の使用も口の端にのぼる。同じ記者クラブの会見でジャズ評論家、作詞家の湯川れいこさんが「戦争に正当な理由などまったくない」と断じた。そう、〝良い戦争〟なんて絶対にあり得ない。
その意味でもマンネリ化が指摘されようが、狼少年と言われようが、メディアは飽きることなく、8月ジャーナリズムを絶やしてはならないだろう。戦後80年が持つ意味は大きく、重い。「新しい戦前」の言葉さえ出る今だけになおさらだ。
平和産業の最たるものが戦後80年から生まれた〝住宅産業〟だ。だが、その歴史は決して深いものではない。その浅い歴史のなかで産業としての成熟化が叫ばれたりしている。本当に成熟産業なのだろうか。だとしたら成熟化した産業のあり方、姿とはどのようなものなのだろうか。ここはシン・住宅産業像、ビジョンを描くときなのかもしれない。そのためにも一記者の眼で戦後80年を振り返ってみるのも面白いかもしれないと勝手に考えた。頼りは備忘録ともいえる長年に渡る取材ノートと新聞等のスクラップブック、そして我がハウジングトリビューンの40年余にわたるバックナンバーだ。無手勝流のジャーナリストが書き溜めた取材ノートからの〝落ち穂拾い〟といった軽いノリで、格別に年次や脈絡を意識せずに住宅産業の源流を「あの日、あの事、あの人」を軸に書きなぐってみた。「道に迷えば歴史に問え」は、先き頃、亡くなった旭化成元社長の山本一元氏の言葉だ。ネクスト・ステージへのヒントが見つかれば万々歳だ。
焼け跡からの復興 〝住宅の戦後〟は長かった
昭和20年(1945)8月15日、昭和天皇は「万世のために太平を開かんと欲す」と終戦の断を下した。作家の高見順は敗戦日記で記す。「蝉がしきりと鳴いている。音はそれだけだ」。
日本の犠牲者は軍人、民間人あわせて約310万人。そして砲弾の音が止んだ街を見回わせば主要都市は焼け野原。生活は衣食住のすべて〝欠亡〟の一語に尽きた。雨露が凌げて、その日の食物にありつくことに必死だった。学校の運動場も、銀座4丁目界隈も、国会議事堂の中庭も、イモ畑や野菜畑に変わった。〝一千万人飢死〟の危機が叫ばれた。〝たけのこ生活〟という言葉が生まれ、家財から衣服まで食料に換えた。
わが家は数百メートル先までに迫った戦火を辛うじて免れたが、母は食糧を求め超満員の列車に乗り、近県の農家に野菜や米の買い出しに出かけた。母は小学校にあがる前の自分の手をつなぎ、背中に幼い弟を背負って農家をめぐり、風呂敷に包んだ着物などを差し出していた。子供心に農家の人が「こんど来るときには○○を持ってこいよ」の乱暴な言葉にどれだけ悔しい思いをしたことか。
奇妙な商売も生まれた。町角で焚火をたいて「ぬくもり料」をとる浮浪者も出た。リンゴの歌が街に流れ、戦災孤児を扱った菊田一夫作のラジオドラマの「鐘の鳴る丘」が子供たちを勇気づけた。古関裕爾作曲の主題歌「とんがり帽子」は今でも〈緑の丘の赤い屋根……〉とそらんじて歌えることにに我ながら驚く。
終戦直後の失業者数は1324万人、この数字は日本人の6人に1人を意味する。終戦の年の秋の人口調査では総人口が約7200万人、これが1947年秋の戦後初の国勢調査では7860万人と1年間で600万人も増えた。復員、引揚げ、出産率の増大の結果だ。
戦災による住宅焼失は絶望的とさえ言えた。その数210万戸とされ、これに引揚者による需要増67万戸などが加わり、住宅不足数は420万戸と弾き出された。戦災都市として120都市が指定されもした。戦災復興院が設立され、住宅確保は喫緊のテーマに。だがインフレによる建築費の高騰、資材不足により住宅復興は遅々として進まなかった。
政府は緊急施策として焼け残りビルなどをアパートなどに替えるといった方策で7万戸の収容施設の確保を目指したり、居室数8室以上、畳数42以上などを持つ住宅を「余裕住宅」として強制的に開放させようとしたりもした。住宅難、食糧難の対応に人口10万人以上の都市への転入を禁止したり、住宅建設を50㎡以下とし、遊興施設など不急建築の抑制も断行。木材不足に対応し、国有・公有林を緊急払下げしたり、皇室も御料林木材100万石(28万㎥)を戦災都市に下賜した。復興住宅の基準として9坪、12坪、15坪のプランが作成されたりもした。
都市部では、地代家賃統制令によって貸家の家賃が抑えられたため貸家建設が落ち込み、かえって住宅不足に拍車がかかる始末。昭和20年(1945)に23万5800戸であった住宅建設戸数は同23年に74万900戸に増加したものの翌24年に37万100戸、同25年に23万7300戸と減少した。
旺盛な住宅需要に対し、住宅建設の主力をなす民間自力建設住宅が資金難から急ブレーキがかかる。ここに到って同25年(1950)に、住宅金融公庫(現・住宅金融支援機構)が設立され、民間の持ち家支援を担った。さらに同26年に公営住宅法が公布され、主に低所得者に対する住宅供給制度が確立、さらに同30年には中級所得層向けの住宅供給を目的とした日本住宅公団(現・UR都市再生機構)が設立された。ここに戦後における住宅供給3本柱が確立した。だが、同30年から同35年までは人口増4・6%に対し世帯数は12・6%増と核家族化の傾向がはっきり現れ、住宅需要はうなぎのぼりに高まる。
同34年には鳩山内閣が住宅建設10か年計画を発表、昭和30年から10か年間に約490万戸の住宅を公共、民間あわせて建設するという計画で、その初年度の同30年度は42万戸の建設がうたわれた。だが、42万戸のうち民間自力建設が24万5000戸と半数以上を見込んだため民間にオンブの10か年計画とヤユされもした。若い女性が望む結婚相手の条件は「借家でもいいから一戸建て」であった。
ただ、昭和30年(1955)の神武景気、同31年の高原景気、同34年の岩戸景気などを経て好景気が続く。池田内閣の10年後の所得倍増計画も、昭和35年の目標13兆円が、わずか5年目の同40年に26兆円を達成してしまう。この間、核家族化が一段と進むとともに、実収入は都市勤労世帯で6割増、農家世帯で8割増。電化製品、自動車など耐久消費財も普及する。
ところが消費景気とはうらはらに住宅だけは別だった。働けど、働けど家は持てない。貯蓄にいそしむものの物価と土地高騰はそれを上回った。土地は昭和30年からの10年間で6大都市で10倍にもなった。経済の高度成長と自由化は住宅難を低所得者にしわ寄せする。居住室が1人当たり2・5畳未満の家が昭和33年の124万戸から同38年には130万戸と逆に増加してしまう。いつになっても住宅難の現状から抜け出せずにいた。昭和31年(1956)の経済白書は「もはや戦後ではない」と驚異の日本の経済復興をうたったが、昭和34年(1959)の建設白書は「住宅はまだ戦後である」と書いた。衣食住のなかで住宅だけが戦後を引きずっていた。取り残された住宅復興に政府が本腰で取り組むようになったのは昭和40年(1965)以降と言っていいだろう。
戦災の焼け野原が住宅産業を生んだ
住宅工業化を先導に挑戦の企業群、先達の住まいへの熱き想い
戦後10年以上が経っても〝住宅だけは戦後〟であった。終戦以来、昭和30年代は年平均45万戸の着工数だったが、同40年代は同132万戸と実に10年間で3倍近い着工数が記録されている。それでも昭和42年(1969)の経済白書は「住に関しては戦後はまだ終っていない」と嘆いた。建設省が指摘してから10年近く経っていながらである。さすがに〝住〟に対する政府の目の色も変わる。本腰を入れての住宅建設の推進がスタートする。建設省は昭和41年に国土建設の長期構想を打ち出し、昭和60年までの20年間に2700万戸の住宅建設の目標を発表した。その前の20年間の建設戸数は1000万戸ほどだ。実に2・7倍。総投資額は100兆円という膨大なものだった。
この膨大な量をいかにこなしていくか。浮上したのが住宅建設の工業化で、昭和41年(1966)に「住宅建設工業化の基本構想」が打ち出された。住宅の材料、部品の工業化、工場生産住宅によって公営、公団など公的住宅を突破口に民間への波及を促した。工場生産住宅は昭和45年度において公共住宅の約23%、全住宅の約15%にするとの目標も掲げた。
同構想を主導した当時の建設省住宅建設課長(後に住宅局長)の澤田光英氏は同構想は〝住宅工業化行政の旗上げ〟と高らかに宣言した。そして、その意気込みは民間にも伝わる。民間から「この計画でいよいよ本気になって事業化を進める気になった」「住宅事業を推進するうえでの支えになった」の声が出た。まさに住宅工業化の、そして住宅産業の本格的な船出である。
こうした膨大な住宅建設戸数の消化、工業化が叫ばれるなかで、いわばキメ打ちのようなことが起こる。通産省の鋳鍛造品課長であった内田元亨氏が雑誌、中央公論の43年3月号に「住宅産業―経済成長の新しい主役」と題し、〝離陸する住宅産業〟を発表。自動車や飛行機などよりも部品点数が多い多部品産業としての住宅産業の成長性をうたいあげ、その主軸に工業化住宅を位置づけた。これを契機に様々な業界、企業が住宅事業への進出をぶち上げた。この内田論文こそが〝住宅産業〟の言葉のスタートラインと見る識者も少なくない。
住宅の産業化が唱えられ、リーディング産業としての注目を浴びるなか、ここに来るまで住宅政策を横目に見ながら終戦直後から焼け野原を前に住宅事業に取り組む企業の存在を見逃すわけにはいかない。それこそ住宅産業の基礎を形づくったフロンティアたちであり、住宅に対する熱き想い、情熱を込めてた挑戦の姿だ。
まず住宅産業の夜明け前、住宅供給の主役をつとめたのが住宅の積み立て割賦販売企業だ。住宅金融公庫が設立されるまで、月払い式での住宅販売を行う建築会社が相次いで誕生した。そのなかでリーダ役をつとめたのが東郷民安社長が率る殖産住宅相互だった。住宅ローン普及の前、資金面で夢の実現への歩みを後押ししてくれる頼もしい存在。年間3万戸を超える規模を誇った。東郷氏の住宅の品質、住文化など住宅に対する理念、先見性はまぶしく、その理路整然とした語り口はジャーナリストらも魅了した。「人が主となる住まいをつくる」「五感を包みこむ住空間を」「日本の伝統、文化、自然を大切にする住まいづくりを」と住宅論を語った。だが、好事魔多し、昭和48年(1973)株式上場に絡んでの所得税脱税事件で奈落の底へ。やがて住宅市場から姿を消す。ただ、取材するなかで東郷氏は私腹を肥やす低次元の経営者ではなかったと今も信じている。最高裁まで争ったものの労役収監される。罰金4億円が支払えなかったのだ。戦後の住宅事業でいわば頂点に立った企業の創業者が、である。裁判後に自宅へ取材したとき「住宅が本当に好きな人でした。散歩でなかなか帰ってこないので心配して探しに出たら、住宅建築工事の現場をずっと見ているんです―」との夫人の言葉が今も耳に残る。記者として殖産住宅事件は大物政治家絡みも噂され、割り切れなさの残るものだったが、東郷民安氏が戦後の住宅難のもと一時代を画した経営者であったことは間違いない。
自動車、電器の雄が乗り出す
住宅工業化の基本構想を建設省が発表する以前から不燃化、住宅生産の合理化を目指しての工法開発に乗り出す企業は少くなくなかった。
その代表がトヨタの創業者、豊田喜一郎氏だ。自動車だけでなく住宅にも着目した。戦後の住宅難のもと、不燃化、工業化を軸にしたコンクリートパネルによる住宅を開発。豊田コンクリート(当時ユタカプレコン)がトヨライトハウスとして発売した。
試作住宅などの建築現場には喜一郎氏がたびたび足を運んでいたという。同工法に目をつけたのが建設省。公営住宅に採用したいと技術開放を喜一郎氏に要請、説得した。このトヨタの協力があってこその量産公営住宅のスタートだ。当時のユタカプレコンの社長は西田嚇氏。日本勧業銀行(現・みずほ銀行)の御曹子で、喜一郎氏の娘婿だが、この建設省の申し入れに「つらい話だ」と近しい人に語っていたという。住宅政策という国策のためとは言えトヨタとして積み重ねたノウハウを吐き出すわけで、無理もない述懐だろう。だからだろう。当時を知る識者の「住宅工業化の草分けは豊田喜一郎だと思う」の言葉もうなずけるのだ。
経営の神様と呼ばれた松下電器産業(現・パナソニック)の松下幸之助氏の住宅への強い想いも今に語り継がれる。昭和34年(1959)に松下電工の丹羽正治社長に住宅開発を指示。戦後の人々の心の荒廃を嘆き「住宅・まちづくりは日本人に本当の日本人の精神を植えつけ、よみがえらせる。これこそ救国の事業」と社員の士気を鼓舞した。「住まいは人間形成の道場」とし「住まいは人間が生活していく上でいちばん大切なものであるから、それにふさわしい製品(良家)をつくりたい」と語っている。〝良家〟は現在のパナソニック ホームズに引き継がれ、社員の精神的、行動的な支柱だ。頼まれて描く色紙に、「日本の家」と書き余白に山と川のデッサン。豊かな四季の日本、日本人の暮らしにふさわしい家をイメージさせるものだ。
こんなエピソードもある。松下1号型住宅への視察で、担当者が「どうぞ靴のままお上がりになって」と促したところ「家へ入るとき靴を脱ぐのが日本の常識、土足で上がるのは家をつくった人にも失礼」と靴を脱いだという。住まいづくりへの敬けんな想いが偲ばれる。
松下第1号は発売記念としてテレビまたは電器冷蔵庫のプレミアムがつけられ、大阪なんばの高島屋百貨店にも実物展示された。松下幸之助氏はプレハブ建築協会の前身、プレハブ建築懇談会の初代会長にも就任している。
戦後の日本の産業・経済界をリードした自動車、電器の創業者の住宅事業への熱い想いは現在の住宅産業界がハウジングプライドとして理念、行動とともに引き継いでいかなければならないのだと思う。
創成期の住宅産業をリード
プレハブ住宅3羽カラス
戦後の創成期の住宅産業界をリードしたのが大和ハウス工業の石橋信夫、積水ハウスの田鍋健、ミサワホームの三澤千代治のいわゆるプレハブ住宅3羽カラスだ。
石橋氏は組立パイプハウスの商品化で昭和30年(1955)に大和ハウス工業を創業する。社会の時勢を読み取る先見性に優れ、パイプハウスも1950年9月の死者500人超、倒壊家屋2万戸を出したジェーン台風の際に、竹が倒れないことにヒントを得た。出した答えが円型で中身が空洞のパイプ構造だ。木材に替わる鉄パイプによる建築として、国鉄(現・JR)などに売込みをかける。営業に全国行脚するが、移動はすべて夜行列車で、夜汽車がホテル代わりという伝説が今に残る。
石橋氏の趣味の一つに釣りがある。鮎釣りの帰りに、日暮れになっても帰らずに遊んでいる子どもたちを見て、なぜ帰らないのかと聞いたところ返ってきた「帰っても居るところがない」の言葉に衝撃を受ける。この子らに「勉強部屋をつくってやろう」―。ベビーブームの中、学校から教室が足りないの悲鳴もあがっていた。移動教室の提案も。開発されたのが、わが国プレハブ住宅の原点とされる「ミゼットハウス」だ。建築確認申請が不要の10㎡以下で、3時間で組み立てられる。1959年10月に発売し、全国のデパートで展示販売する。用途も勉強部屋、居間、応接間、書斎、仕事部屋など様々に広げる。住宅が商品になったのだ。マスコミも国民車、ルームクーラー、ミゼットハウスを「現代版3種の神器」と、もてはやした。
石橋氏の豊かな発想と先見性は住宅以外にも発揮される。鋼管を併用した横断歩道橋もつくった。驚くのは令和の米騒動と言われ、備蓄米放出が話題になっている今、石橋氏は昭和36年頃に備蓄米の倉庫を企業化しているのだ。パン食が増え、過剰米が問題になった。そこで開発したのが、温度、湿度管理を徹底し、長期に渡って高品質、安価に保存できる倉庫「エンターローリ」だ。この倉庫の備蓄米は味がよいと好評で、全国の農業団体とも提携し、市場を開拓した。倉庫の備蓄米が今に話題になるなんで、天上の石橋氏も驚いているのでは。
こうした石橋氏の経営者としての先見性は今も同社の新事業への積極的な展開に現われ、後継者に引き継がれている。「100周年で売上高10兆円」が石橋氏の遺言というが、いま創業70周年、売上高は5兆円を超えた。バトンを継いで誰がどう見とどけるのか。
同社の経営を上昇カーブに乗せたのは樋口武男氏(現・最高顧問)だろう。創業者の思いをこれほど熱く、強く受け継ぎ、語る後継者は少ない。時代錯誤と取られかねないのを承知で全力投球の「熱湯経営」を唱える。樋口氏の後を継いだ芳井敬一会長CEOも樋口氏が実践してきた〝三つの切る〟で100周年へ走る。三つの切るは、新しいことに〝踏み切る〟、合理的に〝割り切る〟、思いどおりにいかなかったら〝思い切る〟だ。
積水ハウスの実質的な創業者は田鍋健氏だ。積水化学の一事業部門で、赤字つづきの積水住宅産業に飛び込む。廃業寸前だったのを積水化学の専務だった田鍋氏が住宅産業はこれからの有望産業と役員会で発言、「それならお前がやれ」と社長に言われての転進だった。行ってみれば赤字も無理はない。なにしろ幹部のほとんどが親会社の積水化学からの出向組で、いつか本社に戻れると考え、腰がすわらず、ヤル気がない。田鍋氏は人心一新しなければと、社員一人ひとりと面談「この会社は難破寸前だ。だがオレはずぶぬれの覚悟で立て直したい。親会社を超えたい。この船に乗って運命を共にする気があるか」と覚悟と決意を求めた。勤務条件改定などガラス張り経営を推進し、社員の士気も高揚、住宅販売も代理店でなく、直接の責任施工、販売に切り替えた。住宅デザインにも力を注ぐ。積極的に若者も抜擢した。
田鍋氏についてミサワホームの社長だった三澤千代治氏は「50歳を過ぎてからの転進にもかかわらず、田鍋さんのバイタリティ、行動力には本当に敬服した。私にとっては親父格で、教えられることも多かった。会合などで議論が沸騰してくると横に座っている私に背広の上でなく、下に指を突っこんできてYシャツの上から「何か言え」「賛成しろ」とサインまがいに身体を突っついてきたりする。子どものようなところがある愛される人柄でした」と語り、さらに「田鍋さんは実に住宅に詳しく、とくに住宅の和室について造詣が深かった。粋人としての田鍋さんが料亭などで常にいい和室と美しい女性を見ているせいでしょうか」と笑いながら話していた。これには後日談がある。田鍋氏に刺激を受け三澤氏が自社の設計者に「良い設計をするためには居酒屋だけでなく、いい料理屋に行きなさい」と言ったところ、陰で「そんなに給料もらってないしー」とボヤかれたとか。
学生時代に病床で思いついたという木質パネル接着工法で住宅市場に躍り出たミサワホームの三澤千代治氏はまさに異能の経営者だ。33歳と史上最年少の上場会社社長となった三澤氏は豊かな発想と経営感覚で時代の寵児となった。街をいくサラリーマンを見ながら「皆な住宅を欲しがっている人たちだ。やりがいがあり、責任は重い」と社員にゲキをとばした。米国NASAの優れた関連企業と連携してのロケット開発に刺激を受け、日東紡、厚木ナイロンなど住宅産業進出を目論む大手企業や地域優良企業と次々に提携、販売施工のディーラー網を全国に拡大していった。100万円住宅の開発や商品をヘリコプターで運ぶというデモンストレーションなど常にマスコミの話題をさらった。オイルショック後の不況のなか、O型の開発販売で業績を一気に回復させ、〝規格〟から〝企画〟への住宅商品の流れをつくったのは住宅技術史に残る。技術屋社長らしく技術開発に力を注ぎ、総合研究所の設立も。南極昭和基地の建物は今もミサワホームだし、「人間が住むところには住宅メーカーがいくべき」と、宇宙居住の夢も語る。戸建て住宅ではトップメーカーの地位も築いた。メディアを大事にし、取材に訪れる記者にはいつもニュースのお土産を用意してくれた。三澤ファンの記者は多かった。バブル崩壊後にゴルフ場経営の失敗などで経営破たんし、経営の座を降り、野に下ったが、80歳台半ばを過ぎた今も、住宅に関する様々な問題についてジャーナリストらに電話をかけてくる。住宅への情熱にかげりは見えない。「住まいは巣まい」と子育ての大切さを語り、縁が薄くなりがちなプレハブ住宅だからこそと、日本の注文化の大切さを唱えてきた言葉の数々は今もなお輝きを増している。今、ZEHが叫ばれるが、いち早くゼロ・エネルギー住宅として〝HYBRID‒Z〟を1998年7月1日に発売もしている。「技術のミサワ」の看板はダテではない。
新規参入企業の栄枯盛衰
プレハブ住宅3羽カラスとしての石橋、田鍋、三澤氏を取り上げたが、住宅建設5か年計画、住宅工業化基本構想、そして内田氏の論文と機を一にして、リーディング・インダストリーへの期待を込めて住宅産業への進出を目論む企業の盛り上がりはすさまじいものだった。鉄鋼、電器、化学、繊維、建設・不動産など殆どの異業種企業が名乗りを上げたといっても言い過ぎではなかった。昭和38年(1963)のプレハブ建築協会設立時に37社であった正会員は同49年(1974)には141社にふくれ上がったことからも分かる。
異業種企業の工業化住宅への進出のなかで印象深いのが乳酸飲料メーカー、ヤクルトが米国の世界企業GE(ゼネラル・エレクトロニクス)と業務、資本提携しての参入だった。GEは当初、100%近い工業化率を誇るモジュールハウスを開発し、米国での住宅産業進出を狙ったが、うまくいかず、日本市場に目をつけた。当時、日本でもGEとの提携を模索する企業も少なくなかったが、GEは住宅には門外漢なもののフロンティアスピリットがあり、強力な販売網を持つヤクルトを提携相手に選んだ。〝プレハブ住宅に外貨進出〟と大きな話題を呼んだ。個人的には夜討ち朝駆けによるスクープで編集局長賞を射とめたものも懐しい取材競争の一コマだ。
だが壮大な計画を引っ下げてのヤクルト―GE合弁も結果は、住宅市場を揺るがすこともなく、撤退の憂き目をみる。そして、これはなにもヤクルトだけではない。バラ色の住宅産業の言葉につられて名乗りを上げた異業種企業も撤退する。オイルショックが原因だ。ウナギ上りで昭和47年度(1972)には185万戸という新設住宅着工を謳歌してきた住宅市場は昭和48年秋からの突然のオイルショックによる経済危機で同49年度(1974)は126万戸と一拠に昭和43年度(1968)水準に戻ってしまった。量的拡大をアテにして参入し、過剰設備投資をつづけ、施工・販売体制も未整備だった新規企業はひとたまりもなかった。本格事業化途中の新規参入企業は相次いで土俵を下りた。いま、この撤退組を見るとき、ある種の感慨を覚える。多くのメーカーが工業化率を大幅に高めたユニット住宅への進出を目指していたからだ。在来木造住宅のような現場作業に頼る住まいづくりに代わってのユニット住宅はまさに住宅工業化の原点であり、住宅産業への離陸を促すエンジンだった。
永大産業、大和ハウス、大成プレハブ、東芝住宅産業、ニッセキハウス工業など先発メーカーも既存工法に加えての新工法として企業化を狙う。新規参入のヤクルトハウジング、日立化成工業、カネボウハウジングなどもそうだ。だがユニット住宅は量産、量販あってこそ成り立つ。オイルショックによる建築資材の高騰と需要減は量産体制を整えられないまま、莫大な設備と人員を抱えるなかで昭和52年頃までは多くが撤退した。プレハブ住宅の先発企業で大手企業の一画を占めていた永大産業さえも倒産した。花開いたかに見えた住宅産業もアダ花かの悲観論も出た。産業としての底が浅く、十分に足腰を鍛えるうちに暴風雨に吹き飛ばされたという感じだ。
工業化を徹底追求のハイム
ソフト化路線を先導のヘーベル
ただ、このユニット住宅でオイルショックを乗り切ったのがプラスチックで知られる積水化学工業だ。すでに同社には子会社に積水ハウスがあり、当初は住宅そのものをつくるなどということは毛頭考えていなかった。狙ったのは浴室ユニットやキッチンユニットなど設備機器ユニットだった。昭和43年に住宅関連事業への進出を目論み、積水ハウスによりすぐりの社員を数か月も住宅の勉強に派遣している。積水ハウスにしても親会社が住宅に乗り出すとは夢にも考えていなかったろう。だが積水ハウスの住宅を学んだうえで、積水ハウスとはちがう独自のユニット工法で「住宅をやりたい」と社内で主張したのがこの積水ハウスでの勉強組だった。設備ユニットを発展させたルームユニット工法だ。これを後押ししたのが当時、東大の内田祥哉研究室にいた20歳代半ばの大野勝彦氏だった。大野氏は部品化住宅論を構想しており、この考えが積水化学と一致し、共同研究を経て積水化学のハイム事業へとつながったのだ。
だが、積水ハウスの創設時、積水化学からの出向組をあえて退職させ、独立独歩の覚悟を徹底させていた積水ハウスだけにこの親会社の住宅進出は以前にまして闘争心に火をつけた。意地のぶつかり合いが販売前線では激しい競争を繰り広げた。ただ、工法のちがいを打ち出したことが、セキスイハイムとしてブレることなくユニット住宅の進化、深化に取り組ませ、現在の大手メーカーの地位を築かせたともいえる。オイルショックでユニット住宅メーカーが撤退するなか、同社がこの荒波を乗り切ったのはすでに昭和46年にモデルハウスをつくるなど住宅ブームのなかでの一足早い企業化を果たし、すでに量販体制を確立、ハイムならではのマーケティングがあったからだ。他社が苦戦するなか、ハイムだけは昭和49年9月期で契約戸数、売上高とも伸ばしている。
オイルショックに一つのラインを引いたとき後発メーカーながら1社見逃せないのがやはり兼業メーカーとしての旭化成だ。繊維、化学の旭化成の住宅産業進出の基盤は軽量気泡コンクリート(ALC)。当時のソ連から技術導入したシリカリチートによる住宅研究会を昭和41年に社内に設置している。ただシリカリチートは品質、生産面で問題が多かった。新たにドイツのヘーベル社からの技術導入に切り換え、ヘーベルを使用した住宅づくりに乗り出し、昭和44年(1969年)に鉄骨軸組み工法でのヘーベルハウスを開発した。当初は代理店方式を採用したが、営業と施工のバランスが取れず、トラブルが続出し、工期遅延、納期も遅れる。責任感の薄い代理店はもうからないとみるや、すぐに辞めてしまう。代理店方式のマイナス面が一拠に露呈した。新規受注もストップせざるを得ない。旭化成は社内的にこのトラブル発生の昭和47年(1972)を旭化成ホームズとして同社の住宅元年としているが、これはこの時のトラブルを教訓として二度とこのようなことがないようにとの自戒を込めたものという。翌年の昭和48年(1973)に住宅事業行きを命じられた山本一元氏は「住宅をやるなんて夢にも思っていなかったが、行ってみるとクレームばかりで、事業の体裁をなしていなかった」と苦笑いしていた。積水ハウスの田鍋社長と話していたとき「住宅事業でいちばん大事なのは営業、2番目が施工だ。この二つを他人にまかせるようなら住宅はすぐに止めろ」と言われたという。直接の契約、責任施工に切り替え、販売エリアも首都圏に絞った。施工面では東芝住宅工業を買収してもいる。ただ、そうしたときのオイルショックであり、資材の高騰、入手難にも泣いた。企業の存続も問われた。だが、ユニット住宅のように大きな設備投資がなく、契約戸数もそれほど多くはなかったことが幸いした。他社が値上げするなか、同社は踏みとどまった。この値上げせずが大きな評価にもなった。事業初期のさまざまな問題点噴出が、その後の事業展開の貴重な体験となっていることが今の同社の姿から分かる。大企業ながら、名におぼれず、地道に展開したことがオイルショックを切り抜け、現在の大手メーカーの地位につながっている。昭和49年(1974)に同社が新聞広告に打った「家は資産」のキャッチフレーズは業界を驚かせ、物議もかもしたが、このことこそが現在の同社のロングライフ住宅につながったとみていいだろう。
一方で、同社が特筆されるのが昭和42年(1967年)の住宅統計調査で「一世帯一住宅」が達成され、戦後の住宅難が終わりを告げ、住宅は〝量から質〟へと唱えられるなか、商品開発で住まい方のコンセプトを明確にしたソフト化路線を打ち出したことだった。その筆頭が二世帯住宅だ。有識者をアドバイザーに二世帯住宅研究所を設立し、新しい二世帯の住まい方を提案した。山本さんは「当初は思うように売れなかった。本音と建て前ですよ。表向きは賛成するんですが、蔭では嫁さんが二世帯なんて推奨しないで、とささやくんです〝嫁姑問題〟の複雑さ、難しさを知りました。こうした話を積み重ねて新たな商品開発に活かしました」と語っていた。
やがてこのソフト化戦略は住宅業界の流れとなり、企画住宅の名のもとに今も住宅産業の主流の設計・販売手法だ。「ソフトで売り、ハードで儲ける」の言葉も出た。
さらに見逃せないのは人材育成だ。工事店などへの福祉施策は業界の先頭を切った。労災保険への加入、団体生保、職方退職・年金制度の創設などだ。職人の定着化に役立ったことはいうまでもない。山本さんは当時こうも言っていた。「旭化成は数百億円という設備投資をしていろいろなものをつくってきたが、住宅事業は大きな設備投資はない。それに設備投資したものは歳月とともに減価していくが、人の知恵は原価しない。むしろ増えていく。だから、社員、工事店などの教育、訓練、福祉には徹底してお金をかけていい。住宅事業は人と人との信頼関係で成り立っている」。
それにしても、積水ハウス、積水化学、旭化成の3社は戦前の旧窒素コンツェルンの流れを組む同根の企業だ。3社を合わせるとプレハブ住宅業界ではほぼ50%のシェアを占める。進取気鋭のDNAのなせるワザか。
(つづく)
住まいの最新ニュース
リンク先は各社のサイトです。内容・URLは掲載時のものであり、変更されている場合があります。
イベント
内容・URLは掲載時のものであり、変更されている場合があります。
-
インテグラル 「中大規模木造建築物の構造デザインセミナー」を開催
2025.08.14
-
木耐協、「気候変動による水害&お金と家と相続のこと」オンラインセミナーを開催
2025.08.08
-
CLUE ドローンを活用した点検DXの成功事例セミナーを開催
2025.08.05