「四時を友」にできるか/昔も今も住まいは夏向き?

「四時を友」にできるか

熱中症警戒アラートが鳴り響く8月の酷暑の日々が、9月に入っても続く。季節感の喪失を嘆きたくなるが気がつけば、24節気の“白露”の9月8日が目の前だ。草花に朝露が宿り始める秋の気配を感じられる頃という日本人ならではの繊細な季節感が誇らしい。とは言え、今は白露を愛でる気分的な余裕などとても持てそうにない。人間の自業自得の気候温暖化をうらみたくもなる。誰の戯言か。「温暖化が進み、地球は年々、熱くなる一方なのに、わが夫婦の寒冷化は続く。どなたかあたため直す方法を教えて」。もうヤケッパチ気味だ。

芭蕉は「造化にしたがいて四時を友とす」と語る。単に春夏秋冬の四季の美をそれぞれ愛でるということだけではない。「四時を友とす」とは四季の移り変わりを友とするということだ。変化の中にこそ季節の真髄が現れる。時間のなかに自然の美を見るのが、真の四季の感じ方なのだろう。

あまりの暑さに立秋などという言葉も吹き飛んでしまったが、百人一首でもお馴染みの藤原敏行の〈秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる〉は、まさに立秋という秋のきざしを読み取った句だ。風の音で、はっと秋の訪れを感じる、という“四時の友”の象徴的な歌といってもいいだろう。風の秋があるのだ。立秋を過ぎて挨拶の葉書きも暑中見舞いから残暑見舞いとなった。夏から秋への移ろいを感じさせる一葉だ。そう言えば、江戸の頃は、夏の終わりに“虫売り”が市中を流した。鈴虫、松虫、くつわ虫などを虫籠に入れて売り歩く。モノ売りの売り声も楽しく、面白いが、虫売りだけは売り声はなかったという。虫の鳴く声が売り声というわけだ。虫売りがくると秋風が感じられる、季節の移り変わりを売りにくる風情がそこにあった。

猛暑が続き集中豪雨など異常気象が日常化し、線状降水帯や雨柱などという新しい気象用語も一般化する毎日。四時を友としようにも、季節の移ろいに気がつかず、気象の読めなさに怯えているのが昨今の状況だ。ただ、そのなかでも、朝顔市やほおずき市などの季節イベントの誘いは嬉しい。日本の四季をまだまだ諦めたくはない。

昔も今も住まいは夏向き?

職業柄で酷暑のなかの住まいに想いを馳せる。TVの気象予報士は叫ぶ。「危険な暑さです。不要不急の外出は避けるように。家では冷房を適切に―」と。コロナ禍のもとではテレワークの一般化とともに新たな空間設置など住まいのありようがいろいろと指摘された。そして夏とともに猛暑のなかの住まいが論議されている。今さら持ち出すのは気が退けるが、徒然草の吉田兼好の有名な言葉が浮かぶ。「家のつくりようは、夏を旨とすべし。冬はいかなる所にも住まる。暑き頃、悪き住居は堪え難き事なり―」だ。古来から耐え難き夏の暑さをどうやりすごすかは今も連綿とつづく住まいづくりのテーマか。冗談に、「家は夏向き、女房は世帯向き」なんていうのも。住宅は夏涼しいようにつくり、女房は家計のやりくり上手がいいというわけだが―。


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